誌上講演:新春経営トップセミナー
『闇に活路あり!』
〜“五体不満足”でも社長はできる。日本一多忙な車椅子社長の挑戦〜


 

講師:
(株)ハンディネットワーク
インターナショナル
代表取締役 春山 満氏

生い立ち
 僕は来月52歳になるもう中年の後半の男です。首から下の機能を完全に失いまして、今年でもう15年目になります。26歳での難病の宣告以来、走れなくなり、歩けなくなり、手も利かなくなり、そして完全に食事もおしっこも寝返りすらも自分でできなくなり、気がつくといろんなものを失ってまいりました。ただ、一方で失う端からいろんなものを見つけてまいりました。そういった観点の中で、実はこの「闇に活路あり」、この失った端から見つける生き方というものが、ひょっとすると私達21世紀の日本の1つのキーワードにもなるのではないのかなと考えました。

 僕は6つまでは非常に貧しい家庭で育ちましたが、7つの時、親父が一山当てまして、貧乏長屋から大阪市内のもう鯉が泳ぐ大きな池のある大邸宅へと引っ越しをしました。それから非常に栄華を極めた生活をさせてもらいましたが、僕が22歳の時、親父は当時のオイルショック関連などで会社を潰してしまいました。親の借金整理が僕の社会人としてのスタートでした。その後24歳で不動産業という面白さに目覚め、必要な免許を取り会社をつくりました。金はない、信用はない、実績はない、あるのは野心と借金だけでした。
発症、そして決意
 私がこの医療、介護界をビジネスとして、専業で歩むようになって、ちょうど今年で丸18年目になります。本来不動産業を営んでおりましたが、自分の難病をきっかけに、僕はこの医療福祉界にビジネスチャンスを一早く見い出しました。では、なぜ僕がこの分野をビジネスとして専業に歩むようになったか、実はそのきっかけはものすごい憤りを感じたからです。

 僕は人よりも元気で勝気で、健康はいつまでも続くと思っておりました。そんな僕が「あれ、どうも何かおかしいな」と難病の予兆を感じたのは24歳でした。当初運動不足だと思いました。しかし、あれよあれよという間に走れなくなり、脱力感を感じるようになりました。そして医者の兄貴の勧めもあり渋々国立病院を訪ね、検査をした結果、進行性筋ジストロフィーという聞いたこともない病名をいただきました。医者は僕にこう言ったんです。「春山さん、間もなく車椅子になると思って下さい」と。そして呆然としている僕に「その車椅子も長くはこげないでしょう」と。もう何を言われているのかさっぱりわかりません。更に続けました、「ひょっとするとあなたの手も足も完全に機能が止まり、そして寝返りもできなくなるかもしれません。残念ながらこの病気は治療法も原因の究明も現代医学ではできていないのです」と。対処療法もありません。薬もありません。そして愕然としたのは、リハビリがないと言われたことです。

 僕のタイプは全身の運動細胞膜を破壊させるという日本では珍しいタイプらしいんです。それも手足からスタートして、やがて中心部へ向かい、やがて僕の呼吸と心臓を止めるまで細胞膜の破壊は続くと、このとき医者ははっきりとこう宣告をしました。このとき26歳の僕の頭をよぎったのは、実は病気のことではありません。「どうやって生きていこう」これだけでした。金はない、信用はない、実績はない。借金こそあれ何もない。崖っぷちのようなものです。よくマスコミの方々が「春山さんは、なぜそんなに強いのですか」と、「なぜあのときあなたはその宿命に負けずに、泣かずに立ち上がれたのですか」と僕に聞きます。だから、僕はいつもこう言います。「僕が強いんじゃありません」、「泣かなかったんじゃありません、泣けなかったんです」と。泣いたら終わってたんです。泣いても僕には救済は何もなかったんです。あえて自分の経験から申し上げます。人間は強いんです。私達は豊かさの中で、随分自分自身を上げ底にしているんです。まだまだ私達には本当の生命力というものが使われずに残っていると、自分の体験から、人間は昔の漁師の言葉で言う板子一枚、下は地獄という、この本当に板子一枚のありがたさ、生かされているというありがたさを本当に体で感じたとき、実は人間は、日本人はもっともっと強くなるんだと僕は改めて確信をしました。

 更に、どうやって生きていこうかと呆然としている僕に、お医者さんがある言葉をかけました。これが実はやがてこの医療介護界へ転身する大きな原動力にもなったんです。「春山さん、3カ月から6カ月の入院だと思って下さい」と。ただ、5分前にお医者さんは治療法はないと言ったんです。原因の究明も対処療法も薬もリハビリも現代医学ではどうしようもないと言ったんです。それで「どういった目的で入院するんですか」とお聞きしましたら、当時の医師団が5人くらい集まっていました。きらきらと輝く目でのうのうとこうぬかすんですね。「春山さん、あなたの進行性筋ジストロフィー、非常に珍しいタイプなんです。あなたのように手先足先から始まって、これだけ全身を綺麗に破壊させていくタイプ滅多にないんです」と。僕はぽかんとして聞いていました。綺麗なタイプと言われても、こっちは何も綺麗なことないんです。そして、「非常に珍しいタイプなので克明な検査をさせてもらいたい」と目を輝かせてのうのうとぬかすんです。それで、僕は若気のいたりもありましたが、むかっと怒りが沸いてきましてこう言いました。「お断りだ。おまえら医者にとっては面白いサンプルの1つかもしれないけれど、僕にとっては一生一回の人生というレースなんだ。おまえら医者のモルモットになって、こんなところで終わるつもりはない。もう二度と来るか」と捨て台詞を吐いて僕はこの診察室を後にしました。今でも覚えています。お医者さんたちはぽかんとして何も言わずに僕を見送りました。おそらく患者からこういう言葉を浴びせられた経験今までなかったんでしょう。ただ、僕はこのとき何か妙なものをこの医療界に感じたのです。それが何かは4年後に分かりました。

 頭の中は真っ白を超えてます。つんとした冷たさの中でそれでも僕は今日また仕事をしなければならないんです。まだ、大きな取り引きにたどり着く前です。ただ、僕はこう決めたんです。車椅子になる前に僕の車椅子を押してくれる社員を雇えればいいんだと、そして字が書けなくなる前に、僕の手の代わりをする会社というチームがつくれればいいんだと。また、経営は手足でするものではありません。首から上でするものです。強い意思と決断力と判断力と行動力と統率力でもって行うものが経営だと僕は思います。よって、僕はこう判断しました。『無くしたものを数えるな。残っている機能を120%活性化すれば生き残れるかもしれない。例え体が動かなくなったって、人として一番大事な人間の尊厳までが失われてたまるか』と、そして『絶対にいい仕事をやって、いい銭を稼いでやる』と。
医療・介護界への疑問、そして…
 僕はこの難病の発症を両親と兄弟に伝えました。そして、当時恋人で将来を約束してた今の女房にも伝えました。女房は受けとめてくれました。私たちは27歳で結婚を約束してたんです。女房は僕の難病を知っても一生懸命支えてくれました。26歳で宣告を受け29歳の終わり頃には、皆さんのように座ると僕はもう自分で立てなかったんです。車を運転しなければ移動できません。そこで、一生懸命女房といろんな工夫をしました。やがてこの工夫が後にトヨタ自動車とのウェルキャブシリーズなどの開発に大きなヒントをもたらしました。

 僕は不動産業を大阪市内で行っておりました。ただ、生き馬の目を抜く世界でチャンスはつかみながら、やはりそんなにもうまくいかず、どんどん借金も雪だるま化し、それと反比例するように僕の体からは機能がどんどん失われていきました。ところが、この体からどんどん機能が失われ、もうアウト寸前のところで念願の取り引きにたどり着くことができたのです。世の中に絶対的な神様のような方がいらっしゃったら、じっと僕を見ながら「おまえよく頑張ったな、ここで一息つかせてあげよう」と僕にご褒美をくれたのかもわかりません。そして借金の整理をし、事務所を落ち着け、ついに念願の社員を雇うことができました。その後、新しいスタートをしました。それが結婚です。女房は僕の高校時代からの友達です。将来を約束し合った直後難病がスタートし、それでも彼女は一生懸命支えてくれました。そして念願の経済的自立ができ、そしてやっと結婚というこの第2のスタートへ僕は向かうことができたのです。そして、これがとんでもない大きなビジネスチャンスへと誘導してくれたんです。

 大阪で始めた私たちの生活、ところが30歳の時女房が、「あなた病院へ行こう」と誘うんです。実は僕は26歳の難病の宣告から一度も病院へ伺ってません。なぜかというと治療法ないんですよ。ところが妻は、「どんなに体が悪くっても、春山という男が面白そうだから、あなたとだったら幸せになれるかもしれないと思ったから、私はあなたと結婚した。介護されるあなた、介護する私。どんどん体が悪くなるあなた、もっと工夫しなければならない私。ただ、私達夫婦だってもっと幸せになっていいんじゃないのか」とこう言うんです。そして、女房が「情報を取りに行こう。幸せになるために病院へ行けば情報があるはずだ。なぜなら病院は不自由な人々を専門にサービスしているところだから」。僕はさすがにこの言葉にはぐうの音も出ませんで、もう二度と行くまいと思っていた国立病院へ、一人の患者として4年ぶりに伺ったんです。そしてそこで見たシーンが僕に、『しめた、これはとんでもないビジネスになる』と直感させました。

 4年ぶりに病院を訪れ、どうだったかと一言で言いますと「こいつら狂ってる」と思ったんです。俗に言う3時間待って3分診察。「すいません、春山と申しますが、かくかくしかじかで3時間も待ってます。何か手続き間違えたんでしょうか」と聞くと、この先生は本当に親切に僕にこう言ってくれたんです。「ん、あんた春山さん?待っときやここで。ちゃんと看護婦さんに言うとくからな。ちゃんとここ動いたらあかんよ。ちゃんとここに待っときや」、優しくね、3つの子供にしゃべるみたいに言ってくれるんですよね。それで、僕は「変な世界やな」と思っていました。そしてまたしばらく待たされる。しびれを切らして又尋ねると、「分かってる、分かってる。ちゃんと看護婦さんに言うてあるからな。ちょっとそこで待っとりや。動いたらあかんで」と言う、僕はさすがにぷつんと切れてしまいましてね。本来僕そんなに上品な方じゃないんです。僕当時不動産屋と言っても地上げをやってたんですね。そして大阪市内の本当に生き馬の目を抜く世界で土地をまとめ、切った張ったをやってたんですよ。啖呵の1つ2つは知ってます。抑えようと思いましたが、こうやって人の尊厳を頭から打ち砕くような扱いを受けて黙っていられるほど柔じゃなかったんです。「おい、おまえ誰に口利いとるんじゃ」と大声で叫びました。僕はもう怒りが止まりません。「おまえは俺より年下やろ。初対面だから年上でも当たり前の敬語でものを尋ねてるのに何ちゅう口の利き方をするんじゃ。このぼけ」と。そうすると、今まであれだけ横柄な態度を取ってた若造の医者が直立不動に変わって、顔は真っ青になって、「申しわけありませんでした」と謝るんです。僕はこの豹変ぶりが分からなかったんです。何でこんな素直な子が一般社会では絶対通用しないような態度をのうのうとやってるのか。やがて答えは分かりました。

 普通、大学を出て一般社会に入りますと、徹底的に鍛えられますよね。ところが、医者達は鍛えられる機会が1回もないんです。大学を出たとたん先生と呼ばれ、皆に尊敬され、そして職場へ行くと看護婦さんや女性の花園。こんな環境で10年ぐらいいると皆おかしくなるんですね。こうやって目を据えて怒鳴られた経験というのは1回もないんです。だから、ものすごい新鮮だったんでしょう。非常に素直に豹変しました。僕が申し上げたいのは、誰がお客様なのかということなんです。私たちは不自由です。お年寄りは本当に途方に暮れます。家族は介護に直面した時、どうしていいのか分からなくなります。そして医療、介護、福祉の専門家を訪ねます。

 ただ、私たちはお恵みを受けているわけじゃないんです。福祉のプロ達は国家公務員としての給料をもらい、医者達は治療によって値切られないレセプトを請求し、全部キャッシュになって不渡りはない手形はない、そういう守られすぎた環境で彼らはサービスマンとしてのイロハを誰にも教えられていないんです。人生の大先輩であるお年寄り、長期入院して大きなお金を支払ってくれている病院にとってはお客様、この方々に対してとんでもない言葉遣いと脳天気な提供する側の論理ばかりがまかり通ってるんです。それで、僕は「こいつら狂ってる」と、強い憤りを感じました。誰が日本の医療と福祉をこんな姿にしたのか。誰が日本の医療と福祉をこんな保育所のような教育で漬けてしまったのか。

 しかし、憤りを感じる一方で、もう1つ発見したんです。不自由な人々全員が貧しいわけではありません。豊かな方もいらっしゃるんです。ちゃんと貯えて、ちゃんと家も建て、子供も育て上げ、ちゃんと備えて、皆さんのような方々です。でも、迎えた老いに対して、この国は選択肢が何もないんです。特別養護老人ホームやあの病院の4人部屋で一生を送る人生、僕はこれが本当に豊かになった日本の老いの姿なのかと大きな疑問を感じました。実は皆が望みながら提供されていない良質なサービスがある、そして、丸抱えの医療・福祉というものは絶対に終わると確信をしました。そして、この分野のビジネスは本当に日本のためになる。望まれていながら提供されていない適正なサービスは、本当に喜んでくれたらねぎられない適正な利益というものも絶対に伴う。これは当たり前の論理です。

 『よし、これは命掛けでやってやろう』と。そうやって事業をスタートして今年でもう19年目を迎えることになりました。この間、いろんなものをつくってきました。例えば、自分が寝返りができないという観点から、世界で初めての音声で人間の寝返り動作を完全に再現させるベッドも開発しました。また、オリックスの宮内さんとちょうどいい出会いをしましたのが5年前です。そして新しい高齢者の心を支える生活ゾーン、この開発を僕は本格的に総合プロデュースし2つ、3つ、4つとオリックスと共に町の総合開発と提携し進めてきました。そして8つ目をつくったとき、宮内さんが、「春山さん、あなたの言ってた意味がやっと分かってきた」と、ただここからが宮内さんオリックス流ですね、やると決めたら急ごうと、5年間でもう50カ所つくろうということで、去年、専任の新会社もつくりました。僕はその会社の25%の株式を持って去年新しい船出もいたしました。

 僕は日本の高齢化というものを、自分がたまたま置かれている介護されるという立場から、介護されるからこそ「介護する側をバックアップしなければ、この日本はもたない」という発見をしました。いろんなものを無くしました。無くしたからこそいろんなものを見つけてきたんです。無くしたものを本当に嘆くな。なつかしむな。新しい発見をしていく。僕のいろんな小さな経験の1つが実は日本再生のヒントにもなるのではないでしょうか。
晴山流処世のキーポイント
 僕がこれまで生きてきた上で、大事にしていることはまず、「言い訳するな」ということです。今、日本は言い訳ばかりです。評論して分析して、週刊誌程度の情報は山のように持って、ただ行動は伴っていない。僕はそれが今の日本だと思います。そして、それが日本の構造的な欠陥であったということに、私達は気付くべきなんです。寄らば大樹の陰、護送船団方式、それで守られながら成長してきた日本経済、地域経済、私達は今、20世紀型の発展成長経済から本当に豊かになってあのバブル崩壊後の安定成熟する中でやっぱり新しい経済というものを創っていかなければならない。そういう時代にこれから望まれるビジネススタイルの一番重要なポイント、それは「言い訳するな」とまずはこれを自分に言い聞かせることかなと思います。

 そしてもう1つ僕が大事にしていること、それはニッチのガリバーを目指せということです。僕はオリックスの宮内さんと非常に気が合います。オリックスって皆さん、どんな会社ですか。もう今、金融の格付けでは世界でも冠たる位置です。外国の資本導入率も1番。裏返せば、外国の経済界から一番信用されている企業。オリックスって、神戸の雑居ビルの貸部屋からスタートしたのご存じですか。そして急成長、バブルのあの波にもオリックスは呑み込まれてません。なぜかというと、非常に早い決断力と非常に早いいわゆる邁進力があったんですね。宮内さんという方は、非常にフェアで厳しい方です。日本流の甘いもたれ合いの精神とかは持ってません。非常にフェアに判断します。そして決断したときの行動力と人のかけ方、お金のかけ方、このスピードは世界一です。ただ、やめたとなったときの逃げ足はもうこれは宇宙一かもしれませんね。一番重要なのは、オリックスがつくり上げたあのリースというビジネス、当時誰が目にかけました。今このニッチの産業が花咲いて成長してみると、誰もニッチとは言わないんですよ。今、金融にしろ、産業にしろ、いわゆる選択と集中でもう統合と再編が大きくこれから行われてまいります。大きなもの同士がぶつかると必ず隙間ができます。その隙間がチャンスなんですね。その隙間に本気で花を咲かせれば、ガリバーになれば、それは健全な利益と大きな発展をもたらす。僕は今こそニッチのガリバーを目指すということをもう一度皆さんに心掛けていただければと思います。

 そして、今日はやはりこの21世紀型の経営で経営者像というものが非常に問われる時代だと思います。こういう混沌の時代、闇の時代を本当に力強く、震えている家族や従業員を引き連れて、この闇夜に船出するような決意を持つとき、経営者の資質というものが問われます。では経営者にとって何が重要か。それは僕が大事にしている言葉、「上三年で下を観る、下三日で上を視る」という言葉に尽きるんではないのかなと思います。

 これは今から二千二、三百年前の韓非子という中国の戦略家が、始皇帝が秦という大国をつくったあとに、最後に教えた言葉、「上三年で下を知る、下三日で上を知る」を、僕は「みる」という言葉に変えました。経営リーダーは、部下のことは皆分かっている。ところが部下には経営トップの気持ちは分からないとよく嘆かれます。しかし、あなたは部下に3日で見抜かれているんです。部下、社員というものはその組織の中で生き残らなければなりません。そうすると、誰が甘い言葉を喜んでくれるか。どうやったら取り上げてもらえるか。上司の顔色を見、組織の体質を見る。部下は生き残るために3日で見抜く、3日で見抜かれる部下の姿をあなた方は3年かかってやっと見える。「上三年で下を観る、下三日で上を視る」、僕はこの言葉こそ今の経営者に非常に重要なキーワードだと思います。

 私達が断固たる、毅然とした態度で率先垂範していかなければ、この闇の時代、活路を見い出すことはできないでしょう。泣いて、恨んで、言い訳ばっかりして、評論して、分析して、そうやって他力本願な生き方ではなく、本当に自らが背中を見せて断固たる態度で臨む、僕はフェアで厳しいというこの一言に尽きる経営者の更なる挑戦がやっぱり日本を活路へ導いて行くんではないのかなと思います。
新しい日本の活力のために
 最後に、地域経済というものが、これから本当の意味の活路を見い出しにくい時代、嘆くべき時代であるのは事実です。ただ、一方で別の観点を持ちませんか。僕は昭和29年に生まれ、兵庫県の片田舎で育ちました。7つから成金生活をさせてもらいましたが、今でも夢の中に出てくる懐かしい風景は豊かな時じゃなく、6つまでの貧しい風景です。日本中が健全に貧しかった時代です。ただ、そういう時代の中、僕の思い出に残っているのは貧しい風景じゃないんです。例えば、一生懸命生き抜いている親の姿。寒い冬1つのこたつに兄弟皆足を突っ込んだ時の暖かさ。暑い夏寝付くまでおふくろが扇いでくれた団扇の風の心地よさ。銭湯からの夜道、負ぶってくれた親父の背中の広さ、暖かさ。これって、貧しくなかったです。今、日本はこれだけ豊かになった代償に何を失いましたか。家庭の秩序を失い、教育を失い、日本人にとって一番大切なこの豊かさの中にある当たり前の幸せのありがたさを私達忘れたんです。昭和40年代と比べて、いい服も着てます。いい食べ物も食べてます。不景気だ不景気だといいながら、どれだけ豊かないい暮らしをしてますか。僕は、今私たちが持っているこの当たり前の幸せのありがたさに気づいたとき、日本にはもう一度強い活力というものが生まれてくると思います。是非皆さんの中から、そしてこの秋田の地から、新しい日本の活力が、この闇と言われる時代にこそ生まれてくることを本当に祈念しております。「闇の中にこそ活路あり」、そして新しい日本をつくっていく。それは私達一人一人の気構えと志にかかっている。子供達にどういう時代を残すのか。今、私達がこの時代の転換期に本当に礎になって支える。そういう気概をもう一度甦らせる時代だと思います。

(文責 中央会:紙面の都合上、講演内容を一部割愛させて頂きました。)



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